*身体論ノート*

自分らしく生きる 身体と心の整理術まとめ

ピラティス リフォーマーという発明。

野口体操の野口三千三氏は身体を部分的に捉えずに、「言葉にならない感覚」を探ってことばとからだを研究した。

 

言葉になる前の意識、身体感覚があるとして、それは西田幾多郎のいう「純粋経験

というものだったり、現代では瞑想やマインドフルネスに近いかもしれない。

 

そういった身体の経験、身体感覚を表したくて、あえて解剖学的な数学的な表現を用いずに。感覚として伝わるように書きたい。ことば(キューイング)によって感覚を理解してもらうのもピラティスインストラクターのスキルで個性、独自性が出せる部分でもあると思う。

 

ピラティスのマシン、リフォーマーその特徴。

 

リフォーマーの特徴をあえて感覚的な表現で表すと

 

「床が動く」ということ。

 

どういうことか?

 

通常、腕で物体を押せば、足や身体が床繋がっているため動くのは物体の方である。

それを感覚として、またはピラティスで使うキューイングとして表すなら「身体から腕が離れていく」という感覚である。

 

しかし、リフォーマーにおいて(すべての状況ではないが)は、「手や足などの接点から身体の方が離れていく」ことになる。

 

「接点から自分が離れていく感覚」とは、例えば、船に乗っている人が壁などの動かない物体を押した場合、仕事が働くのは船の方である。つまり、その動作により壁から自分が遠ざかっていくのである。

 

そこに残る体感覚は「腕が何かを押した」のではなく、「腕が自分を押し返した」という感覚を脳が認識できるのである。

 

別の例を出すと、ドアを押して開ける場合。

 

いつも通りドアが開けば、自分は床に安定しながら「ドアを前方に押している」。しかし、そのドアが全くの偽物や、鍵がかかっていると知らずに開けようとした場合、力が働く方向は自分の身体の方である。

 

その時はじめて自分の腕の力に胴体が押され、胴体が押されまいとして、反射的に「不意に」胎に力が入る。この「不意に」はいる胎の感覚。

 

これがピラティスでいうコアの感覚であり、腕と胴体のつながりを感じることになる。

私の理解ではコアは自分で動員するものではなく「不意に」、何かの抵抗やインプットがあるから働くものだと思っている。

 

全く動かないドアを力ずくで押した場合は筋肉の過度な緊張になると思うが、リフォーマーの負荷は実際はスプリングのため、この「不意に」入る感覚を見事に再現していて、より胎を体感できるのだ。

 

マシンと身体の境目が変わる

 

マインドフルネスや瞑想を深く実践していくと、自分という主体と、身体の外側の環境という客体とう二つに分けられたものが、二つに分けられる前におこる意識状態を経験をすることがある。自分と環境を分けているのは自分という意識が生まれ脳が物事を識別した時だから。

 

脳が自分の身体と、外側の環境を識別する前の段階に身体感覚というものがある。

 

リフォーマーでエクササイズを行っていると、手や足の接点からマシンと自分が分かれて動いていると通常は認識する。しかし、リフォーマーと身体が「つながる」と、

自分の股関節から下の脚部までがリフォーマーのストラップであるかのように繋がり一体となり、その上の骨盤、脊柱を連動させていく瞬間を感じることがある。

 

これはつまり、マシンと自分の接点が足の裏とストラップという頭で分けた境目ではなく、股関節までがマシンの一部と同化したような身体感覚になる。

 

船の例で振り返ると、動かない壁を押した時、肩から掌までは壁の一部となることで、肩が境目となって胴体を押したということになる。

 

こうして、自分の身体の内側の構造の中に働く力の境目を感じることができるのがりフォーマーの特徴でもある。

 

リフォーマーという「動く床」の上で、腕や脚を動かすことにより、その動き出しの一瞬、自分の身体が「押し返された」という感覚を脳が身体が認識する。

 

この瞬間の感覚、自分に向かって働いてくる力を感じ、脳が身体が働いて学習すると、日常の身体の感覚にも変化が起こる。

 

例えば床に立った時、股関節を通して、床反力自分を「押して」立っているのを実感できるのだと思う。

 

そして、リフォーマーに対して自分の肢位(寝る、立つ、座るなど)を変えることにより、寝ながらにして立つ、前に進まずに歩く、陸上で泳ぐ、ことができる。

 

「床が動く」ということ。

 

このシンプルな理解によって、リフォーマー上で行うエクササイズの意味の理解や体感が大きく変わってくる。